【書評】母里啓子『子どもと親のためのワクチン読本 知っておきたい予防接種』
『子どもと親のためのワクチン読本 知っておきたい予防接種|最新改訂版|』双葉社・2019年6月
著者:母里啓子(医学博士、元・国立公衆衛生院疫学部感染症室長。2021年に死去)
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1 穏健・バランス型の懐疑論
本書の出版は、新型コロナ以前です。
予防接種とワクチンについては、新型コロナワクチン関連のインパクトが強すぎて、それ以前の問題意識が見えにくくなっているかもしれません。
新型コロナ以前は、予防接種やワクチンというのは主に子どもの話で、本書のように「子どもの予防接種をどうするか」という問題意識が中心でした。
著者の母里さんの考えを一言でいえば、「穏健・バランス型の懐疑論」といえるでしょう。一方で、ラディカルな制度批判でもあります。
…親にとって、子どもの病気はこわいものです。病気にならないためにできるだけのことをしたいと、たくさん予防接種を受けている方も多いことでしょう。
(本書16~17頁)
でも、ちょっと待ってください。予防接種は、健康食品とは違います。どんどんとればいいものではありませんよ! ワクチンは、病気の種をもとにして作られているものなのです。けっして予防接種を軽く見ないでくださいね。…
…健康な時に、毒を少しだけ身体の中に入れて、軽く病気にかかって、本物の病気に対抗する抗体を作っておこう、というものなのです。
ですから、おどかすつもりはありませんが、ワクチン接種は人の身体にとっては、少しこわいことなんです。
それでも、かかったら死んでしまうような病気であれば、ワクチン接種しておく意味はありますよね。でも、本物の病気にかかっても軽くすんでしまって、それで生涯同じ病気にかからないのなら、何も、わざわざ痛い思いをしてワクチンを打って病気にかかっておく必要はないんです。…
母里さんはすべての予防接種・ワクチンを否定しているわけではありませんが、「必要と考えるものだけを、選んで打てばよい」というお考えです。
…私自身は何もいらないと思うけれども、その人の環境と、周りの人の考え方も含めて考えて、やっぱりこの病気にはなりたくない、と思うなら、ワクチンを打っていいのではと思います。…
(本書66~67頁)
…どのワクチンを打つか、打たないかについては、ワクチンに慎重な小児科の先生によってもだいぶ考え方が違います。
ある医師は、自分のお子さんには全く打っていない、必要ない、と言います。
一方で、懇意にしているワクチン慎重派の医師は、お孫さんにMRワクチンと四種混合ワクチン(当時)は打っている、と言っていました。
四種混合に入っているジフテリアとポリオは、必要性は高くありません。
けれど破傷風が入っているし、百日せきは、たしかに月齢の低い乳児がかかるとたいへんだし、近年大人がかかってうつしているので、ワクチンで予防した方がいいというお考えなのだと思います。
病気が心配だから本人が打ちたいと思うなら、そして、効果があるワクチンなら、もちろん打つ意味はあるのです。…
一方で、インフルエンザワクチン、子宮頸がん(HPV)ワクチンに対しては、母里さんははっきりと批判的です(本書68~69頁)。
また、複数ワクチンの同時接種(混合ワクチンのことではなく、1回に2本以上のワクチンを打つこと)に対しても批判的です。
いずれにしても、母里さんの考えは、今の予防接種制度に対する原理的な批判になっています。
今の法制度では、子ども向けの予防接種であるA類定期接種(※)は接種の努力義務まではあり、接種が勧奨されています。努力義務なので接種しなくても違法ではなく、罰則もありません。
- ※A類定期接種の対象は、ジフテリア・破傷風・百日咳・ポリオ、BCG、日本脳炎、麻疹・風疹、Hib、肺炎球菌、B型肝炎、ロタウイルス、HPVなど。
- また、任意接種の対象は、インフルエンザ、2024年度以降の新型コロナなど(高齢者の場合はインフル・コロナは努力義務のないB類定期接種の対象)。
母里さんの姿勢が穏健な懐疑論とはいっても、「必要と考えるものだけを、選んで打てばよい」というのは、予防接種の努力義務+接種勧奨に従わないということです。
なぜ、穏健な懐疑論が、ある意味でラディカルな制度批判に至るのか。
まだ十分に整理できていませんが、定期接種(A類)という枠組みが、予防すべき疾病との対応関係を失って、本来の目的である「疾病予防」が空洞化していた側面もありそうです。
「必要と考えるものだけを、選んで」ということは、必要ないと思えるものがある、ということですから。
定期接種は、本来、疾病予防の中でも集団予防・社会防衛に比重がある類型でした(あくまで比重であり、破傷風や日本脳炎のように個人予防型のものも昔からありましたし、近時ではHPVワクチンが典型的な個人予防型です)。
しかし、既に日本国内で疾病に感染する機会がほぼ無いようなワクチンが、複数あります。
例えばポリオ(いわゆる小児麻痺)は、直近のイスラエル・ガザ戦争のさなかに、予防接種のために戦闘休止がされたほど、予防接種の必要が認められている疾病といえます(ガザのケースは日本であれば「臨時接種」といわれる類型に近い対応です)。
しかし、日本国内では、1981年以降、感染例はないとされています。
世界的にも、流行国はパキスタンとアフガニスタンのみのようです。
ジフテリアも、1999年を最後に、国内の感染例はないとされています。
日本脳炎は、家畜(主に豚)の細菌を蚊が媒介して人に感染するといわれていますが、北海道では媒介する蚊が存在しない、北海道ではする意味はない、という指摘もあります(本書149~150頁)。
ポリオや結核(BCG)、麻疹などは、WHOが根絶計画をすすめているので、予防接種には国際協調という側面もありそうです。
ただそれにしても、国内で感染機会がないなら、何のために努力義務+接種勧奨での定期接種をやっているのか、これは「疾病の予防」でやっていることなのか、という疑問は出てくるでしょう。
定期接種でなく臨時接種にして、必要になった時に(例えば国内や周辺諸国で感染例が出た時に)接種するのではいけないのか、とも。
公費を投じているのですし、健康被害も少数ながら避けられないのですから。
母里さんは、日本脳炎ワクチンの改良に関わったことがあるが、どうしても副作用をゼロにはできなかった、とも述べられています(本書45頁、150~151頁)。
予防すべき疾病との対応関係を失った後も、予防接種だけが続いている、という状態は、かつての種痘がまさにそうでした。
痘瘡(天然痘)は、予防接種が必要な疾病であったことは、ほとんどの方が認めることでしょう。
しかし、種痘は、国内で最後の患者が出てから20年以上も強制接種(※当時の制度では罰則付の接種義務)が続いていて、種痘禍と呼ばれる健康被害を生み続けていたのでした。
新型コロナ以前の、子どもの予防接種の問題意識をたどっていくと、「かつての種痘禍と、結局は同じ道をたどっているのではないか」という疑問にぶつかります。
新型コロナは、予防すべき疾病の存在は明白でしたから、予防接種とワクチンをめぐる問題意識を一変させた面はありそうです。
必要性・有効性・安全性のうち、必要性の議論が後退し、安全性の議論が更に大きくなりました。
何しろ、疾病・障害認定審査会の認定では、
新型コロナワクチン以外の全ワクチンの健康被害認定状況:3522件(昭和52年2月~令和3年末)
新型コロナワクチンの健康被害認定状況:8328件(令和6年10月31日時点)
という状況です。
【新型コロナワクチン以外の全ワクチンの健康被害認定状況】
・予防接種健康被害救済制度 認定者数 令和3年末現在(厚生労働省Webサイト)
https://www.mhlw.go.jp/topics/bcg/other/6.html
【新型コロナワクチンの健康被害認定状況】
・疾病・障害認定審査会(感染症・予防接種審査分科会、感染症・予防接種審査分科会新型コロナウイルス感染症予防接種健康被害審査部会)(厚生労働省Webサイト)
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/shingi-shippei_127696_00006.html
ただ、この必要性・有効性・安全性という問題意識の基本的な枠組みは、現在でも有益です。
本書にあるのは新型コロナ以前の問題意識ですが、新型コロナ後との連続性もまた大きいことを、確認させてくれます。
2 その他の興味深いテーマ
本書には、他にも、興味深いテーマがいろいろありました。
「Q 「ワクチンを打たないなんて周りに迷惑」と言われて動揺しています」「Q 予防接種を受けずにいたら「ネグレクトでは」と疑われてショックです」「Q 一方的にワクチンをすすめる医師に困っています」など。
「ネグレクトでは」と疑われたら、という問題意識は、法律家にも関係があります。
何しろ、法律上、保護者には子どもに予防接種をさせる努力義務はありますから。
ただ一方で、親が子どものために真摯に「予防接種を避ける方が子どものためになる」と判断した結果なら、それでもネグレクトなのか、といわれれば、躊躇せざるを得ません。
子どものための真摯な判断がネグレクトなはずはない、という感覚があります。
これは一律に答えが出せることではなく、穏健なバランス感覚が必要なことでしょう。
最後のテーマについては、医師側の捉え方が垣間見えて興味深いので引用します。
…予防接種に一生懸命になりすぎてしまうお医者さんが多いのは、仕方のない部分もあります。
(本書80~81頁)
医学部ではワクチンのよい部分しか学ばないし、感染症で亡くなる子どもを診たことのある医師は、ワクチンで防がなければという使命感でいっぱいになってしまいます。
ワクチンが小児科のお医者さんの大事な収入になってしまっているという困った実情もあります。
どうしてもワクチンについては、打つ方に熱心な小児科医が多いのです。…
…でも、ほとんどの医師はきちんと話をすれば、こちらの気持ちを尊重してくれます。それがあたりまえなのです。
テレビやインターネットにはワクチンに積極的な医師ばかりが目立ちますが、ワクチンに対して慎重な医師はたくさんいます。…
使命感+収入、となると熱心になるのもわかります。弁護士にも通じるところがありますから。
特に医療の場合、基本的に病気やケガを抱えた方を対象にしますが、予防接種・ワクチンはむしろ健康な方を対象とします。
医・薬を産業としてみた場合、経営的にはここに伸びしろがある、ここを伸ばしていきたい、という考え方が出てくることは容易に理解できます。
それはおかしい、という対抗的な考え方もまた業界内外から出てくるであろうことも。
母里さんは、基本的には「官」側の経歴の方ですから、民間の利害を離れて俯瞰的に観ることができる、という面もあったかもしれません。
3 ワクチン=「必要悪」という共通感覚の系譜
本書を読んでいて感じたことです。
母里さんは1934年生まれとのこと。
- 予防接種の接種義務と罰則があった強制接種の時代
- 昭和40年代に予防接種禍が社会問題になったこと
- 昭和51年の種痘廃止と接種義務の罰則廃止
- 平成6年の接種義務自体の廃止・努力義務化
こうした時代背景によるのか、あるいは「官」側の経歴によるのか、母里さんの通底には「ワクチン=必要悪」という、おそらくは共通感覚というべき考え方が流れていることを感じます。
というのは、これは母里さんだけのことではないからです。
かつて、強制接種の時代の終わり頃には、国側の専門家でさえ、ワクチンは「必要悪」であり「やらなくて済むならやらない方がよいもの」という認識を持ち、語っていました。
福見秀雄さんという方がおられます。元・国立予防衛生研究所所長で、東京予防接種禍訴訟では国側の証人として証言されています。
福見さんは、次のように述べられています。
…予防接種は元来毒をもって毒を制する種類の妙薬である。…
(国立予防衛生研究所学友会編『日本のワクチン 改訂2版』1976年・丸善、388頁。国立感染症研究所Webサイト上で電子書籍として公開されています)
…これは生体側にとっても相当の負担をかけることである。そのためにある個体ではその負担に堪えかねるものも出て来る。
いうならば予防接種は生体側にとっては必要”悪”であり、できるだけその応用を制限するという方向であるべきである。
しかしその必要悪がなされなければ社会あるいは各個体においてその健康と健全な発展が期待できないことがある。それゆえにこそ予防接種の強制はあるべきである。…
東京予防接種禍訴訟でも、次のように証言されています。
…この、予防接種というのは、さきほどから申しておりますように、とにかく、人間に対して全然無害であるということは言えないものでありまして、とにかく、軽い病気を起こしたり、あるいは病原微生物の毒性成分の一部を取り出して、それを人間の身体に入れるという操作を加えますから、ある程度の危険ははいるわけですね。
(『日本裁判資料全集1 東京予防接種禍訴訟 上巻』信山社・2005年、666頁)
ところが、そういう危険を、多少の意味で入れても、その入れられた身体のほうが、それに対して免疫になれば、今度は完全に感染症から防げるということで、利益を得るわけです。…
…予防接種は、個人的にも集団的にも、プラスとマイナスがあるんですが、この両方の面から考えて、プラスになると判断されたときだけ、予防接種はすべきであるということであります。
…やはり予防接種というのはある意味からいえば必要悪なんですよね。
(同、678頁)
つまり全然無害でない、というものを国民に注射するわけですから、だからそういう場合に全然無害でないものがどの程度害があるかということはちゃんと認識しないと行政はできないと思います。…
母里さんと同じことを、別の表現で言っているように思えませんか。
これらは、予防接種を法的に強制していた時代背景のもとで、当時の官側の考え方を述べたものといえます。
官側の、健康被害に対する弁明、弁解の側面も、確かにあります。
一方で、予防接種の限界とリスクを熟知する立場から、予防接種への依存・拡大にブレーキをかける側面もあります。
母里さんのお考えの中にも、この「ワクチン=必要悪」の考え方が共有されていると感じます。
「予防接種は、健康食品とは違います。どんどんとればいいものではありませんよ!」
ちなみに、福見秀雄さんはインフルエンザとワクチンの専門家だったのに対し、母里さんはインフルエンザワクチンに明確に批判的ですから、おふたりの考え方は全体では全然違っていたはずです。
それゆえ、共通感覚というべきものでしょう。
近年の予防接種・ワクチンの状況を見ていて、もっともギャップを感じるのが、この「ワクチン=必要悪」という考え方が、少なくとも表面上は見えなくなっている、ということです。
ただ、厚生労働省や古くからの製薬会社の人たちは、この考え方を知っているはずです。
何しろ、かつては国側の専門家のトップの方でさえそう言っていたのですから。
母里さんの、予防接種・ワクチンに対する穏健なバランス型の懐疑論にも、源流となる、長く深い系譜があることを感じます。
新型コロナ以降の状況を見る上でも、示唆するところが多いのではないでしょうか。
弁護士 圷悠樹